琉球漢詩について

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−琉球漢詩文−

おきなわの地に漢詩があるのをご存じですか?

明治12年、沖縄はそれまでの琉球藩を廃止し、沖縄県となり、完全に日本の一県となります。世に「琉球併合」と呼ばれるものです。琉球と漢詩との関係をお話する前に少し琉球の歴史を振り返っておきましょう。

琉球の歴史

沖 縄の歴史はまだ不明なことが多いのですが、12.3世紀頃まで沖縄本島は北部に北山国、、中部に中山国、南部に南山国が割拠し、対立していました。それぞ れ中国や東南アジアと、日本と結ぶ交易国として栄えていました。そうした中から中山国が次第に力を持ち、やがて沖縄を統一、首里を都として統一琉球中山国 を創ります。通称この統一国を私たちは「琉球王国」と呼んでいます。

 琉球国は中国や東南アジアと 交易し、日本とこれら諸国を結ぶ中継ぎ貿易国として栄えます。17世紀初頭に江戸幕府が成立すると、鹿児島の薩摩藩は琉球の中国貿易に目をつけ、やがて軍 隊を送って琉球へ侵攻します。琉球側の抵抗もむなしく、薩摩藩は琉球を支配下に置きます。しかし、琉球と中国との貿易に魅力を感じた薩摩藩は、「琉球国」 を廃止するのではなく、従来通り国の存在を認め、薩摩藩の自室監視下で、琉球国が中国に朝貢(中国の臣下として中国へ仕えることを表す)を認め、中国貿易 からもたらされる利益を得ようとします。ここに世界でも類を見ない、日本(薩摩)に仕え、かつ中国にも仕えるという両属国家が出現することになります。 もっとも実質の支配は薩摩藩が行い、中国は名目上の支配しかありません。中国の船が琉球に入ると、一斉に薩摩の役人は姿を隠すといった姑息なことも行いま す。

こうした両属関係が江戸時代ずっと続きますが、明治になって、日本政府は琉球のこうしたあいまいな立場をはらそうと、明治12年軍隊を送って、日本の一県「沖縄県」として併合します。ここに長く続いた「琉球王国」は終焉を迎えます。

琉球と中国:

  以上さっとみてきましたように、琉球と中国との交流は大変長いものがあります。特に琉球王国として薩摩藩の支配下で中国と交流していた江戸時代は、琉球は 中国の属国として中国へ朝貢します。そのために皇帝に謁見のため北京へ上ったり、また常時福建省の福州に連絡事務所(琉球館と呼ばれる)を置き、ここに滞 在して中国側の官吏と交流してきました。こういう所から、中国の漢詩を学び、琉球の人たちも漢詩を詠むようになります。

琉球漢詩:

  江戸時代の琉球は薩摩藩の支配下で、中国にも仕える両属体制を取らされます。そのため琉球は薩摩を中心とした日本との交流から、訓読による漢詩が入りま す。いわば日本漢詩です。また中国で中国官吏と交流した琉球の官吏は本場の漢詩を持ち帰ります。ここに日本流漢詩と中国本場の漢詩が入り、に日本漢詩と中 国漢詩をミックスした琉球漢詩という独自の世界を生みます。

 形式的には日本流の訓読詩であると同 時に、中国音でも読まれもします。内容的には、故郷を離れた旅の詩と、航海を中心とする海洋民族詩を両柱とし、琉球音楽にもみられる情感の高い詩が特色と 為っています。日本で刊行されたものと、中国福州で刊行されたものがあり、江戸時代はよく詠まれていたようです。

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  漢字なんて堅いといった時勢、明治以降読まれることなく図書館の隅でほこりを被っていますが、私はこの心豊かな、まさに南国の詩人からしか生まれない漢詩 が消え去るのを惜しみ、有限会社オフィス・コシイシという小さな出版社を興して、この刊行事業に乗り出しています。漢詩と言えば本当に堅苦しいのですが、 実際はとても読みやすいものです。一度ぜひご覧ください。現在のところまだ二点の刊行ですが、これからも引き続き頑張りたく思っています。既刊の三名はと もに琉球国がなくなる頃の人物で、国が滅ぶというリスクを背負った詩人たちです。厳しい時代にどうやって生きるか、ここにも一つ歴史を生きた人の姿があり ます。

有限会社オフィス・コシイシ代表者 輿石豊伸